卒啄同時
夜、他にこれといってやることのない時、感じた自身の恥。
これは実に耐えがたいものだ。なぜなら、その時は、言うならば、暇に任せて何を期待することもなく恥を味わっているからだ。
君が射った矢は一本残らず君の上に落ちてくる。
自分自身が敵なのだ。情念にとらわれたものは自分は絶対病気ではないと思い、
そして差し当たりうまくやっていけない理由など絶対何もないと思い込み、そこからついにこう考える。「情念といったって、自分自身のことにすぎない。でも自分の力でどうすることもできない」。
気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。
判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。
運動を伝える筋肉だけが我々の自由になる唯一の部分であるから。
微笑むことや肩をすくめることは、思い患っていることを遠ざける常套手段である。
こんな実に簡単な運動によって内臓の血液循環が変わることを知るが良い。
伸びをしたいと思えば伸びをすることができ、あくびも自分ですることができる。
起こりそうなことは、際限なく出てくるからだ。
不幸な事態は後から後から生じてきて、何ひとつ進展しない。
彼のやることと言ったらなんでも初めの思いつきばかりで、しかもすぐやめたり、またちょろちょろやり始めたりしているだけだ。恐怖の中には意味のない動揺の中には何も存在していないと僕は思う。
3大幸福論の一人アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)の幸福論より。
ラッセルとヒルティは読んでないな、
人間自身が作り出した秩序においては、信頼というものが事実の一部分をなすもので、
もし僕が自分に対する信頼を考慮しないとすれば、大変な計算間違いをすることになる。
自分が倒れると思うと、本当に倒れる。自分が何もできないと思うと、僕は本当に何もできない・・・
知っていたはずだ。
体の中のどこかには、あったはず。そして、戻ってきたきがする。
死ぬまで体験して、死ぬまで忘れ続けるだろうか。